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■岡 能久氏(21回英米)
三八〇年の時を超えて加賀の殿様と同じセンスで世界に打って出る能作・七代目

 白雉祭の際、卒業生が経営するお店の商品を販売する物産展、何年か前にお手伝いをしてくれた茶道をやっている友人の話だ。「金沢に素敵な金沢漆器のお店があって、そこに行ってみたら分不相応で入れなさそうなところだった、けれども思い切って入ってみたらやっぱり素敵なものばかりだった。その能作って武蔵の卒業生のお店なの!」私の脳裏に「能作」、その名が刻み込まれた。
 金沢駅の東、兼六園と香林坊の間の金沢ならではの風情を感じさせるロケーション、「能作」はそこにあった。能作7代目社長の岡さんは穏やかなもの腰と温厚な表情の持ち主であるが、そのお話は壮大なものばかりで圧倒された。岡家に伝わる資料によれば、能登屋を名乗った初代作太郎が安永9年(1780)金沢城下の武蔵が辻に、仏具の飾り職人に漆材料を売る店を開いたことが「能作」の始まりとされる。3代目から「岡」を名乗るようになり、江戸、明治、大正、昭和、平成と時代を超えた。

金沢から世界へ

 金沢漆器は加賀藩2代藩主前田利常が、室町時代から京都に伝わっている蒔絵の技法とその文化を加賀にも取り入れようと、蒔絵師の五十嵐道甫や清水九兵衛を招き、技術が伝えられ始まった。武家のファッションの発信であり、殿様やお姫様の調度品やお嫁入り道具として育まれた。江戸時代、加賀藩は細工所と名付けた場所に職人たちを集め、そこで彼らはお給金をもらい、金沢漆器を作っていたが、明治になり加賀藩というパトロンが失くなって、名工たちは困った。そこで、1870年頃、産業革命以降に始まったウィーンやパリの万国博覧会に自身の名を入れて出品するようになり、ヨーロッパやアメリカで高い評価を受けた。
 平成16年(2004)、岡さんは東京で「万国博覧会里帰り展」を観て、その事実を知り、そんな昔に金沢の職人さんたちががんばっていたのだと驚いたとのこと。そして、それはアンティークではなく現代も日本の石川県の金沢で作っているんだ、ということを世界に知らせたいと、切実に思ったという。
 それに遡る3年前の平成13年(2001)、ヨーロッパの伝統工芸の産地をめぐる石川県主催の視察研修に参加し、「金沢漆器は世界に通用する」との手ごたえを得ていたという。翌年にはフランクフルト・メッセに招待された石川県の特別企画展に出品、その後モンテカルロ・トラベルマーケットに出展、この展示がミラノの宝飾品店の目に留まり、平成19年(2007)からは今日まで毎年開催することとなっている。
 また、この年、能作は「地域産業資源活用支援事業」の認定を受け、金沢漆器(NOSAKU)を知らしめる事となり、今日まで高い評価を得ているということだ。ミラノ、ウィーン、パリの展示会を開催しながら、ヨーロッパでの販路開拓を目指し、大胆にかつ着実に岡さんの海外戦略は身を結んでいる。

少年時代に悟った覚悟から自分だけの能作へ

 幼くして東京から金沢へ両親と共に移り住んだ岡さんは、近所の子供達と一緒にソフトボールに明け暮れながらも、能楽堂で仕舞を習ったり、自宅で漆やその職人の技に身近に接しながら成長し、「父や祖父と同じように、自分も漆屋を継ぐのだろうか」と漠然と考え、周囲の子供達とは違う人生が自分に宿命づけられていることを子供心に感じていたという。
 石川県立泉丘高校に進むと柔道部で毎日汗を流し、昭和44年(1969)、関西の大学に進学する事が多い金沢で、お母様のご実家のある東京の武蔵大学人文学部欧米学科へと進んだ。
 人文学部の1期生で元学長の故平林先生を始めとしていろいろな経歴を持ったユニークな兵(つわもの)が多かったという。当時は大学生になることに憧れていて「勉強する」ことに興味が向かなかった。しかし、いろいろな分野で人前で話すことが多くなると、勉強をしないと自分の発言に対しての裏付けにならないし、言葉が一人歩きして無責任なことになると困るし、で「一生勉強だなぁ」と思うそうだ。在学中は先輩に誘われるままに茶道部に入部し、国際生活体験協会のお世話で、大学2年生の時にアメリカに2ヶ月間、4年生の時にスイスに4週間のホームステイを体験したり、日本橋の三越本店漆器売り場でアルバイトに励んだという。
 これらの経験が、以後の岡さんにとって大きな財産となるとは、大学時代には全く予想もしなかったそうだ。そして、岡さんは、三越の上司に「日本一の漆器店は京都の象彦」と教わり、就職するなら象彦と早くから心に決めていた。見事、初志貫徹を果たした7代目は象彦に就職。京都の本社で研修を終えると千代田区一番町の東京支店に配属され、営業を担当することになった。
 ひたむきに仕事に打ち込むその仕事ぶりについて、北陸人らしい粘り強さがあると褒められたそうだ。お客様への敬意と漆器への強い愛情がしっかり伝わり、売り上げは伸び、営業成績は社内トップになったそうだ。このことは、後の岡さんの企業経営や人生において大きな自信となっているという。
  そんな矢先、金沢のお父様から、「漆器の店を開き、任せたい」との知らせが届く。昭和50年(1975)、26歳で金沢に戻った岡さんはお父様が建てた広坂の本社で身を粉にして仕事に没頭し、青年会議所活動にも精を出し経営を学んだ。平成2年(1990)、新社屋の完成と同時に7代目能作社長に就任し、商いの規模を拡大、バブル期もその後も大過なく乗り切ることができた。お父様の代までは漆器屋さんに漆を売っていたのを、岡さんの代になって漆器のプロデュースを始めた。
 職人さんのところへ行き、膝をつき合わせ、頭を下げ、お客様の求める図案や形や装飾の細かい部分まで指示をし、頼んで作ってもらうのである。象彦での売れ筋の目の経験や、象彦にいたという肩書きが役立ったという。それまで金沢の職人は象彦の下請けの形で満足していたのである。金沢における「能作」のブランド、ご両親が作り上げた信用、会社の好立地などの条件が整って、漆器の売り上げが伸びた。「それにしても、商人は、職人にもお客様にも頭を下げてばかりで大変だな」と、思ったとおっしゃる。

大学時代の遠州流から裏千家へ

 大学在学時代になんとなく誘われて入った茶道部は遠州流で、お茶碗の入った桐の箱の紐も結べず、決して優秀な部員ではなかったけれど、漆器屋に入社して一番最初に紐も結べるようになり、社会に出てから役に立ったそうだ。江戸時代、加賀藩の前田家は茶道奉行として仙叟を招き、茶道は武士の嗜みとした。
 岡さんは金沢に戻った際、裏千家の茶道がさかんな土地柄で、迷いもなくお父様の先生に師事し今日まで続けていらっしゃる。そして、50歳のころには、岡さんは金沢の茶道界になくてはならない存在にまでなっていた。社団法人茶道裏千家淡交会青年部の活動に力を入れ、全国代表者会議で議長の大役を務め、全国各地の青年部を訪ねてお茶の素晴らしさや家元の心などをテーマに講演を行うなど、現代茶道の担い手として活躍されていらっしゃる。能作5代目の伊作は、金沢では「東都茶会記」の「金沢闡秘録」にも登場するほどの名高い数寄者であって、その末裔が現在も続いている家が少ない中、今の少人数でのお茶会で、漆器屋であるからこそ自分なりの目で時代考証ができ、数寄者の方たちからの激励がありがたいとおっしゃる。
 代々受け継いだ多くの道具があることにも、感謝をなさっている。もとより商売のために茶道を習ったと思ったことは一度もないが、これまで続けてこられたのは、茶道を通して商人にとって一番大切なもの「もてなしの心、人を思う心」を学ぶことができたからであるという。
  岡さんの目指すこれからの「能作」が楽しみである。
 最近、明治の終わりころ、根津嘉一郎氏が経済視察で来沢(金沢を訪れること)した折、岡家に立ち寄り、お茶を差し上げたときのお礼状が見つかったそうだ。岡さんの武蔵大学入学は、その時から決まっていたようである・・・。
 今、いろいろな分野において、例えば食や盆栽のように、日本の古来からあるものの評価が海外で高くなって、それが日本に戻って国内で評価が上がるという事例が多くあるが、漆器に関しても同様で、これからさらに世界で、また日本で受け入れられるのではないだろうか?漆器は使い方を守れば、使えば使うほど輝き、丈夫になっていくそうだ。値段に気後れすることなく、きれいなものを手に入れてみたいと思う。

(取材と文:白鳥 優子、26回経営)