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■日本文化学科 "学科団交"  (第1回)
武蔵大学名誉教授 鳥居 邦朗

 昭和45(1970)年の秋から翌年にかけて、46年度からの学費値上げをめぐって学内は紛糾した。値上げの論拠を問う学生側に対して、大学は「受益者負担」を言ったが、学生は、高い学費は教育の機会均等を損なう、私学教育も公教育の一端を担うものだから国が学費を十分に補助すべきであるとして、学費値上げに反対し、国庫補助の増額を要求せよと迫った。
 ストライキが続く中で、のちに「団交十回」と一口に言われる長期戦になった。すでに学費値上げもやむなしとしてこれを承認していた教授会もこれを追及された。大学側は正田建次郎学長、岡茂男経済学部長以下、実に忍耐強く学生に対応した。学生側もよく耐えたと言ってよいだろう。激しい論戦の中でも大部分の学生は節度を保ち続けた。これほどの根気強い対話は、平生から教員と学生の間に深い絆を保ってきた武蔵大学だからこそできることなのだという自ら慰めるような声もあった。
  正月明けの団交は相互の意見と立場を確認しあう締めくくりの団交となると聞かされていた。事実そのように進行し、やがて新たな発言もなくなったように見えたときに、ハプニングが起こった。「それでは、これで話も出尽くしたので」と、学長、学部長らが席から立ち上がってしまったのである。学生席から一斉に怒号が沸いた。学生議長団のまとめと終会宣言を待って立ち上がればよかったのである。あれだけ忍耐強かった大学首脳部にしては千慮の一失と言うべきであろう。これがもとで以後一ケ月こう着状態がつづいた。ストライキは解除されず、学年末試験の見通しも立たなくなってしまった。

 こういうときである。学生から「日文学科団交をやりましょう」という提案を受けたのである。とっさに、「君たちが”団交”と称する事をとがめはしないが、教員側は学科全体の懇談会として出席する」という条件をだした。それでよいと言うので先生方を説得することを引き受けた。当時人文学部はできたばかりで、二年生までしかいなかった。経済学部の上級生が中心の団交にはぴったり来ない感じもあったであろう。
 学科の専任教員でこのときまでに着任していたのは平井卓郎教授、神田秀夫教授、島田俊彦教授、福田秀一助教授、それに専任講師の私の五名であった。神田先生が真っ先に賛成してくれて、他の先生方にも異論はなかった。いずれもいまは故人である。

 ”学科団交”は開かれた。学費についての考えも聞かれたと思うが、話題は自ずから日本文化学科とは何か、そこで何を学ぶのかという点に収斂した。日頃抱いていた疑問をそれぞれの先生にぶつけ、このような折衝が得意でない先生方も丁寧に真剣に答えていた。他に例のない日本文化学科について、教員学生ともにあらためて確認する貴重な機会となったのであった。
 締めくくりの団交が再度行なわれ、2月15日にストライキが解けて学年末試験に突入した。とある科目の試験監督に行ったとき、答案を書き上げた学生が次々と退出する中で最後まで答案に取り組んでいる学生の中に”学科団交”の中心になっていた二人の学生がいた。それを見て思わず目の裏が熱くなるのを覚えた。この学生たちとあの会をやって良かったという思いがこみあげたのである。