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■大学の将来のために尽力された藤塚先生
武蔵大学名誉教授・1回生   向山 巖

 創設当時の武蔵大学の教授会のスタッフは、教養課程は旧制武蔵高校から持ち上がった先生方が担当されたが、専門課程はすべて外部から賄われなければならなかった。藤塚先生旧制大学の場合と異なり、旧制高校から昇格の新制大学はどこも共通して同じ悩みをかかえていた。武蔵の場合をみると、幸いに実質的な創設者の鈴木武雄先生の人脈でベテランから若手まで優れた教員を揃えたことは、先生方の顔触れからも評価できた。開学3年目から専門課程の授業が本格化したが、当時若手の研究者のなかで学生からみて輝いていたのは、鈴木先生が旧京城帝大教授時代の同僚のご子息で、助教授として「経済学史」の講義を担当されていた藤塚知義先生であった。先生は36歳になった1952年に名著『アダム・スミス革命』を刊行してスミスの研究者として注目され、また1978〜81年にはトーマス・トゥックの『物価史』全四巻の訳書を刊行するなど研究業績を発表され、学会からも注目されていた。

 私が1953年に東北大学大学院に進学する際、先生は終戦後の一時期、「金融経済研究所」の研究員時代の仲間の原田三郎教授に紹介状を書いてくださった。入学後、原田ゼミにも参加したが、同ゼミ出身の今野登氏(後に武蔵大学の教員、生涯の友)との長い付き合いが始まったのもそれが機縁であった。私が先生からとくに親しくご指導をいただいたのは母校の助手となってからで、助手の身分で先生の担当する「恐慌論」をテーマの専門ゼミ(第4回生)に参加し、授業が終わると駅前の喫茶店で(ご馳走になりながら)当時の日本経済のあり方を議論したり、また私の論文を有力な経済月刊誌『経済評論』へ寄稿できるよう助力してくださるなど、公私ともにお世話になったことが懐かしく思い出される。

 先生は、教授会のメンバーのなかで武蔵に対して深い愛情の念をもたれ、教育、研究だけでなく大学の将来に対して懸念されていた数少ないお一人であった。その一例として、1960年に誕生の経営懇談会(現在は存在しない)の執行機関、「企画調査室」の室長に就任、当時の理事会任命の学長を補佐する仕事に精力的に取り組まれれ、大学発展の礎を築かれたことがあげられる。私の手許には教授会を中心に記録した1955年から9年間にわたる分厚い手書きのメモがある。研究・教育の合間の時間を割いて書かれた自発的なお仕事であり、その写しをいただいた時にはただただ感服しながら拝見した。教員時代に指導をいただいた先生はすくなくないが、そのなかでとりわけ大学の将来を憂い、新構想を模索されたのは藤塚先生であったといっても過言ではない。77歳で他界されたが、追悼文集『回想の藤塚知義先生』の中で私は、「武蔵大学の礎を築かれた藤塚先生」と題する一文を寄せたが、忘れることができない先生である。