武蔵大学の歴史は時期区分するとどうなりますか 第1期(1949〜1968年度)は、経済学部単学部時代です。 初期10年は経済学科のみでしたが、1959年度に経営学科が設立されました。経営学科増設のために、1号館が新築され、学生数は、1962年度以後、1800名前後まで増加しました。経済の高度成長の開始という背景がありました。 第2期(1969年度〜1991年度)は、複学部時代です。1965年に着任した正田建次郎学長・校長は、学園創設50周年記念事業として、大学の複学部化を推進しました。その結果、1969年に人文学部が創設され、教職員・学生数は増加しました。特に、女子学生が増加しました。人文学部完成年度の1972年以後の学生数は3000名を超える規模になりました。大学院経済学研究科・人文科学研究科も開設されました。校舎は、高校中学が南側に新築移転した後の建物(現3号館)を全面的に用いるようになりました。体育館、学生会館、朝霞運動場など大学専用の施設もできました。1980・81年度には、図書館、教授研究棟、中講堂棟(学生食堂)も新築されました。1975年度に学園長制度部創設され、大学学長、高校中学校長が別に決められました。この時期の特徴は、学生数、教職員数と施設の増加です。 経済の成長と戦後のベピープーム期世代の成長、大学進学串の上昇という背景がありました。 第3期は、1992年度以後です。1988年以後、第2次ベビーブーム期世代の成長に合わせて、東京都心部(23区と武蔵野・三鷹市)の大学も学生数制限が緩和され、臨時定員増が認められるようになりました。武蔵大学は、1991年度に学生定員を増加させましたが、その増加分の利用や既存学科定員数の再配分によって、経済学部金融学科新設(1992年)、社会学科の独立(社会学部、1998年)、人文学部比較文化学科新設(1998年)社会学部メディア社会学科新設(2005年)、人文学部の学科再編成(2005年)を実施しました。その結果、学生数は1994年度以後、4000名を超える規模になりました。建物も4〜8号館、10号館が新築されました。1980年度以後、建物の建設資金は、基本的には学生納付金によるようになっていました。 また、この時期は1991年度に施行された大学設置基草の大綱化に対応して、武蔵大学でもカリキュラム改革が行われ、教育体制の強化や自己点検が推進された時代でした。 武蔵大学の教育方針、教員と学生との関係は変化しましたか 1学部1学科(1959年度からは2学科)から3学部8学科になったことにともない、教職員数も学生数も増加しました。カリキュラムも学部・学科の増設や大学設置基準の大綱化に応じて改められました。専任教員1人あたりの学生数は減らしてきましたが、同じ程度の大学は他にもあります。武蔵大学の少数教育の特色は、教員1人当たりの学生数ではなく、1講義あたりの受講者数を抑える点、ゼミ・演習を必修として、学生それぞれに応じた教育を行い、学生の「自ら調べ、自ら考える力」を伸ばす点、にありました。ゼミ・演習にカを入れている点は昔と変わっていません。したがって、武蔵大学の学生には、勉強や生活について親しく話ができる教職員が今もいると思います。ただし、ゼミの時間延長とかサブゼミ・合宿はやりにくくなりました。教職員と学生の関係は、ぜミ・演習によって異なると思います。
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