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■武蔵大学60年のあゆみ
武蔵大学名誉教授 星野 誉夫

初代根津嘉一郎さんはなぜ私立高校を創設しようと考えたのですか

 初代根津嘉一郎さん(1860〜1940年)は山梨県出身の実業家で、東武鉄道、富国徴兵保険(現富国生命)など多数の会社の社長・取締役を兼任していました。子孫に多くの資産を残すことは害あって益なしと思い、公共事業のために力を尽くしたいと考えていたそうです。その思想は、1909 (明治42) 年、訪米実業団に参加した際、ロックフェラーなどアメリカの資産家が公共事業に多額の寄付をしているのを知って強められたと述べています。
 根津さんは、第一次大戦中、政府内の知人に英才教育の意義を説かれてこれに関心を深め、実業界の友人や教育界の指導者たちの意見を聞きました。その結果、7年制高校の開設を決意し、その経営主体として1921年、総額で約360万円相当の土地・株式・現金を 寄付して、財団法人根津育英会(1951年に学校法人に移行)を設立しました。
 なお、根津さんは古美術品の蒐集家として有名で、いずれ美術館を開設する予定でした。しかし、設立以前になくなりましたので、尾形光琳「燕子花図」などの国宝を含む4000万円相当の美術品は1940年1月、根津育英会に寄付され、同年8月、根津育英会から根津美術館設立のための財団に寄付されました。

戦後の学制改革で旧制高校はどう変わりましたか

 学校教育法(1947年3月公布・施行)による学制改革で、教育の機会均等を実現するため、6・3・3・4制の単線型学校体系が決められました。旧制の高校と高等専門学校(高専)は、旧制の大学と一緒になってあるいは単独で新制大学に移行することになりました。たとえば、旧制一高は、東京帝大が新制大学に移行するとき、その中で主として教養教育を担当する部門になりました。また、旧制浦和高校は、新制埼玉大学の文理学部になりました。 成蹊・成城高校は、新制の中学・高校・大学へ移行することを考えました。

新制武蔵大学由誕生は順調だったのでしょうか

 順調ではなかったのです。東京にある私立の旧制高校(武蔵・成蹊・成城)と戦後私立になった学習院が一緒に東京連合大学をつくる構想もありましたが実現しませんでした。
 旧制武蔵高校の教授会は、中学・高校・大学への移行計画をまとめ、大学には文理学部を設置したいと考えました。しかし、理事会ははじめ大学設置に同意しませんでした。 新制の中学・高校に移行するべきだという考えが強かったようです。教授会や旧制高校同窓会の一部にもそのような考えがありました。新制の中学・高校として、英才教育という旧制高校の遺産を活かしたいという考えでしょう。理事会が、大学昇格に消極的あるいは反対だったのは、戦後、東池袋にあった土地(通称は根樟山)約12,600坪の売却や有価証券の減価などにより、根津育英会の財政基盤が弱くなったことも一因だったと思います。 
 理事会は、大学を設立したいのであれば、学園(大学・高校・中学)の経常費について責任をもてないから、自給自足するようにという意向でした。その時、父兄会は学園一体となって大学設置を支援するという方針を決めました。それがあって、理事会は大学設置に同意したのです。大学設置に際して、旧制高校教授会は理事会の意向を考慮して、文理学部ではなく経済学部経営科学科の設置を文部省に申請しました。しかし、認可を得られなかったため、経済学部経済学科として申請し直し、認可されました。その結果、旧制武蔵高校を母体として、新制武蔵中学校(1949年)・新制武蔵高校(1948年)・新制武蔵大学が設立され、男女共学となった大学は1949年4月に一期生を迎えました。一方、旧制武蔵高校は、1950年3月に最後の卒業生を送り出し、28年聞の歴史を閉じました。