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■須藤清市さん(28回社会)、恭子さん(27回社会)

開湯900年の歴史を持つ山形県赤湯温泉で宿を営む須藤清市さん、恭子さんご夫妻をご紹介します。


 湖底に沈む運命であった大庄屋の曲がり屋が宿として甦った。六代目が守るものは、建物だけでなく、そこに染み込んでいる歴史と文化であった。今日に到るまで豊かな湯量で旅人の身体と心を癒し続けてきた。「いきかえりの宿」がもつ役目とは・・。

宿「瀧波」の前で
宿「瀧波」の前で。須藤さんご夫妻(両端)と筆者

 峠の文化といわれる山形。庄内、村山、置賜、最上、どこへ行くにも峠を越えなければ入れない。ざっと数えてみただけでも、その数26。峠を作っている山々が多いことは当然のこと、それに伴って温泉も大小様々41カ所にものぼる。
 東京から山形新幹線で2時間13分。米沢市から北へ15qほどのところに南陽市赤湯がある。駅名は「赤湯」。赤湯温泉の町へはタクシーで5分という便利さである。
 ここで「いきかえりの宿・瀧波」を営む須藤清市さん(28回社会)と恭子さん(27回社会)の御夫妻は武蔵大学の卒業生である。ご主人の清市さんは「瀧波」6代目にあたる。
 瀧蔵とおなみという夫婦が、地元にある烏帽子山八幡宮に参拝する人々に、茶屋を興して餅を搗いてふるまったのが始まりで、宿はこの夫婦の名から生まれた。
 300年前の上杉藩大庄屋の多層曲がり屋を遠方で解体し、この地に移築したという。なるほど、重厚でダイナミックで黒光りした巨大な梁(はり)が訪れる人を温かく見守っているかのように見える。
 温泉が豊かであることはいうまでもないが、ここ赤湯のある米沢盆地は食の宝庫でもある。有名な米澤牛を筆頭に、果物ではサクランボ、ラ・フランス(洋梨)、ブドウ、スイカあり、さらに当然のことながら米作りも盛んである。
 清市さんはご自身で餅米の栽培もしていて、穫れた餅米は宿で朝食に出すお餅となる。毎朝恒例の餅つき大きな臼の中、大きな杵でドスン、ドスンと搗かれたお餅が泊まり客に供される。湯気の出ている搗きたてのお餅が一口大にちぎられて、雑煮、大根おろし、納豆、粒餡、ずんだ、うぐいすきなこの6つの味とのコラボレーションができあがる。材料は宿の主人が吟味し、手間をかけて作った「スローフード」の味である。小さい頃に食べたことのあるような、どこか懐かしい味であった。また庄屋の、伝統的な「箱膳」も宿では夕食に採り入れるなど、須藤夫妻の「食」へのこだわりは強い。 

◆あるときは女将、あるときは母親。一人二役の奮闘の毎日
 ご主人の清市さんは生まれたときからこの宿を継ぐものと思いながら大人になったようであるが、恭子さんは自分が育った環境とは全く異なる「旅館業」に最初のうちは戸惑いが多かったという。岩手県盛岡で会社を経営する家庭に育った恭子さんは、持ち前のその性格から平凡な家庭には嫁に行かないだろうと言われていたものの清市さんと結婚したことにより、恭子さんの「女将」としての人生がスタートしたのである。上の双子の息子さんたちが5、6歳で下の坊やが2歳ぐらいだったある日の夕方、その日は朝から特に多忙で疲れていた恭子さんが帰宅して「ちょっと横にならせてね。すぐにご飯つくるから・・・。」気がつくと時計は夜の9時を、回っていたのである。慌てふためく恭子さんに、お兄ちゃんたちが「大丈夫だよ。修にはお塩かけてご飯たべさせたから。僕たちも、そうしたから。」これにショックを受けた恭子さんは子育ての壁にぶつかり、悩み続けたそうである。でもあるとき、聞きに行った講演会で「不足があることによって、子どもは育つ。何でも足りていれば、子どもは育たない。」のことばに勇気づけられ、後は「ひらきなおり」の気持ちで子育てにベストを尽くそうと決意したという。3人の息子さんたちも大学生と高校生になっている。女将と母親の一人二役をしっかりこなしてきた母親を尊敬しながら、これからは頼りになる存在になっていってくれるに違いない。子どもたちのことをはなしている時は、母親の顔になっている恭子さんがそこにいた。
 一方、女将としての心意気は筋金入りの恭子さん。女将の仕事は世の中でいちばん評価してもらいやすい仕事ではないだろうか、という。確立したポジションを持ち、強固な決定権を持つ反面、苦境に追い込まれた時には全ての責任を背負うことになるからだと語ってくれた。迫力のあることばであった。

◆変えているから変わらない。新しくするから古いものが生き続ける
 昨年の夏の盛りは、カメムシが異常大量発生し、米作りに被害が及んだ事態もあったが、幸いにして、収穫の早い餅米はその被害には遭わず、豊作であった。自分の額に汗して、丹誠込めて育てたものだから安心して人に出せる。土地を愛し、大切に思い、土地からの恵みを授かる。食へのこだわり、スローフードの考えがここにも現れている。
民芸品の数々
 民芸品の数が心を和ませる
 先代が40qも離れたところから、大庄屋の曲がり屋を解体し運ぶときには、周りから呆れ返られたという。しかし本物であるからこそ、300年もの時を経て、再び息を吹き返したのである。地元出身の童話作家・浜田廣介氏(「泣いた赤鬼」の作者)はこのことに感銘し、宿に「いきかえり」のことばをつけてくださった。

 300年前の梁も柱も磨けばつややかさを増し、襖や障子、畳は張り替えることによって真新しいものになる。絶えず「変えているから」いつ来ても、いつ見ても「変わらない」のである。食についてもおなじことが言える。また、資源の大切さ、宿にとって大切な問題でもあるゴミの少量化を考え、割り箸は止めた。 はじめに土地ありき。土地やものを大切にすることが、歴史・文化・伝統の継承につながる。これをするのが「旅館の使命」と語る須藤さん御夫妻の熱い気持ちがこちらに伝わってきた。
 ここ赤湯や米沢もカメムシの異常発生やカマキリが卵を産み付ける高さでその年の降雪量が分かると云われている。今年は、カマキリにとっても想定外の積雪量であったらしい。この雪も3月には消え、烏帽子山にうぐいすが鳴くのも間近い。


取材後記

◆山形・赤湯温泉「瀧波」を訪れて
 久しぶりの大雪体験でした。温泉地として古くからの歴史がある赤湯には、「旧国鉄・赤湯駅」から赤湯温泉まで人力鉄道がひかれていたことを、ご主人の須藤清市さんから伺い、古き良き時代の赤湯を想像しました。「まちおこし」の面からも復活させたいと思っていらっしゃるそうです。
 また、「留学生の古今満喫旅行同行記」(55号掲載)もタイムリーなものとなりました。この旅行に行った留学生の一人が、この雪国の温泉の大ファンになり、両親を連れてきてあげたいと話してくれました。彼は腕時計を見ながら携帯電話で山形新幹線の時刻表を出して見せ、「バスだと長時間かかったけれど、新幹線ならどのくらいでいけるのですか?」と。「いまからこれに乗ったら2時間15分位だから、6時ごろには着くのよ。」の返事にワクワクし、頭の中ではすでに、ご両親と温泉に入っていたようでした。
 なお文頭の写真は、昨年秋の宮城支部総会に参加したあと、娘と待ち合わせ赤湯を訪れた時に撮ったものです。

取材と写真:山下 多恵子(同窓会常任理事、広報委員会)

 

車窓から見える赤湯温泉
車窓から見える赤湯温泉
 
美しい雪景色
雪の反射がまぶしく美しい。
運転士さんも真黒のサングラスをかけていました。