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 「武蔵大学E.S.S.創部の“思い出”」

 秋山 晴彦 (4回生経済)

 昭和27年(1952年)「少数精鋭・ゼミの武蔵」の校風に魅力を感じ、新制大学の4回生として私共は武蔵に入学しました。
  当時既に文系では新聞、コーラス、演劇部があり、熱心に活動しておりましたがE..S.S.は存在して居りませんでした。私はE.S.S.を創りたいと云う強い願望を持って、一年生の仲間より同士を募りはじめました。一人では何も出来ないからです。鈴木先生に相談に行きましたところ、ご支援下さる力強いお言葉をいただきました。 「まず、人を集め活動し実績を作ること」とアドバイスを受けました。一年生だけで、E.S.S.を一緒にやってくれそうな仲間が整いはじめたのを機に、作戦会議を開き、活動計画を立て実行に移しました。まだ同好会でした。
 まず、アメリカ大使館に出向き、大使館文化部に英語のスピーキング、ヒヤリングを勉強するインストラクターを出してもらえないか掛け合いました。幸い非常に好意的に協力してくれまして、ミセス・リンゼイと言うご婦人にお世話になることになりました。毎週土曜日に武蔵に来ていただいてご指導いただきましたが、彼女は日本語が話せなかったし大変ご苦労なさったと思います。その熱意と親切には、ただただ敬意を表するのみでありました。
  同好会から部に昇格するためには、一年生だけでは心もとなく部の顔となってくれる、人格、識見、英語力ともある上級生が是非とも必要でした。当時3年生であった、太原さん、江頭さんにお願いしたところ快諾して下さいました。太原さんを初代キャプテンとして部は晴れてスタートすることが出来ました。
  当時一年生のE.S.S.のメンバーは12名でしたが、その中で8名は他部との掛け持ちで協力してくれた方々でした。後にコーラス部に専念するため、同部に戻られた守住君は柴田君と一緒に、「武蔵讃歌」の作曲を完成、練習に練習を重ねて、第1回卒業生を送り出す際、はじめて披露されました。現在も歌い継がれている讃歌はこの時期に誕生したのです。
  他方、対外活動の手始めとして、四大学E.S.S.による、英語の弁論大会を定期的にやろうと思い立ち、まずは先手必勝で、イニシアチィブを取ろうと「第1回オラトリカルコンテスト」は武蔵の講堂で、と働きかけ主催校となりました。結果優勝は、5回生の星野さん(現(株)星野リゾート会長)であり、その時の2位が、学習院大の磯村尚徳さん(元NHK欧總局長)でありました。
  また、学内活動の一環として翌年の学園祭では、アーサー・ミラーの「セールスマンの死」を英語劇でやり演劇経験もなく、予算もなく、人も足りないと言う、ないないずくしの中自分達で舞台装置を作りながら、無謀極まりないことに敢えて挑戦しました。我々に有ったのは若さとやる気だけでした。
  下手な英語と、下手な演技を観て下さったお客様の忍耐心に思いをいたし、ただただ謝意を表したものです。

昭和29年6月5〜6日に開催された大学祭で上演されたアーサー・ミラー作英語劇「セールスマンの死」の出演者・スタッフの写真です。   
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昭和29年学園祭のパンフレットです。
戦後8年、また学制改革により新制武蔵大学がに開設(昭和24年)されてから5年が経過した頃です。
学長は宮本和吉氏。

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英語劇「セールスマンの死」上映の案内

講堂で上映されました。舞台装置は2階建てで、手作りですが本格的なものだったようです。

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