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■被災地牡鹿半島を訪ねて
早朝仙台で高速バスから迎えの車に乗り換え、牡鹿半島に向かう。 6時前というのにガソリンスタンドには100台以上の車の列、徹夜組もいるに違いない。石巻を流れる北上川北側の損害が大きい。渡波は被害が地区全体に広がり道路側はうず高く瓦礫が積み上げられている。女川に入ると巨大な魚市場は骨組みだけとなり、遠洋漁業船が打ち上げられて瓦礫除去に手が付けられない状態にある。数ケ月前に、俳優中村雅俊が故郷女川をテレビ番組で紹介していたが、今は海辺の街の片鱗すらない。さらに半島の先端に進み荻野浜、小網倉浜、大原浜、給分浜、九十九浜、鮎川浜、谷川浜を回ったがどの地区も壊滅状態、私の故郷大谷川地区はすべて消えており呆然と立ちすくむのみであった。気を取り直し、災害に遭われたお年寄りの世話を引き受けてくれている施設と避難所となっている中学校の体育館を訪問する。慰めの言葉も見つからず、只々手を握り締めることしかできなかった。
宮城県漁業協同組合の会員数は5000軒である。家は全滅、漁船は80パーセント損壊、養殖いかだは100パーセント流出、平均年齢60歳以上と復興へのハードルは高い。国の抜本対策が急務である。私が会った漁師の方々の表情は意外に明るかった。もう少し「時薬」が必要だが、再生への気力があちこちの地区から湧き上がることを心から念じる。故郷再生のために自分に何が出来るか、を自問自答しながら帰路につく。
帰宅すると、東松島市教育長の手紙が届いていた。現地レポートの一部を紹介したい。「前略 今日は午前中各学校の避難所を回り、4月からの学校再開に向けての環境整備について確認してきました。校庭には水没した車や流されてきた車が数台折り重なり、ヘドロの海となっています。大曲小学校の校舎にはまだ600人以上の避難民がいて、自治組織をつくって食事や掃除の当番を決めて自主的な運営ができるようになりました。被災当初は1000名近い人が避難し、2、3日は孤立状態で水も食事も届けられず通信手段もありませんでした。他にも孤立した学校が数校あり、災害対策本部としても手の施しようがなく、2、3日は寝る暇もなく対応に追われました。特に野蒜小学校への避難民は校舎から溢れ、体育館に避難した100名程の人達がギャラリーまでの津波に呑み込まれ30名の人達が亡くなっています。また校舎には避難した人達も1階が水没し、2、3階に避難した人達は身内の人が波に流されているのを目の当たりにしています。
幸いだったのは子供たちの殆どは学級に残っていて、そのまま学校に避難したため、地震での被害者はいませんでした。しかし、大地震のため家族が学校に迎えに来て、家に向かう途中、車ごと津波に流されて亡くなった子供達もいます。東松島市での死者が700名を越し、その中に幼児、児童、生徒も16名含まれており、行方不明者も多数いるので犠牲者は2倍以上になるかもしれません。学校の始業式を10日遅らせて、4月21日としました。4月10日までに避難している人達に移動してもらい、職員室や教室を整備し、学校が再開できるよう環境を整えたいと思っています。昨日政府の災害調査団が来市し、避難所となっている大曲小や被害の大きかった野蒜地区や東名地区を案内しました。内閣府政務官や国交省政務官等はその被害の甚大さに驚き、法改正も含めて最大限の努力を約束をしてくれました。今回の未曽有の大災害からの復興は県や市町村ではどうすることもできず、国への期待を大きくしています。 後略」
木村重紀(12回経済)
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