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■<特別寄稿> 学生時代の風景

(内田 欣輝、高校29期・大学7回)

 

 

 私が武蔵中学に入学したのは、昭和24年4月で千川上水沿いの桜並木が満開だった。千川通り(以前は練馬街道といっていたと思う)の小橋を渡り校門に入り時計台の鉄筋校舎を見上げて校舎に入った。千川上水より分水して濯川となり、それは学校の真ん中を通り運動場との間にある中の島という島を経て再び千川上水に戻って流れていた。
武蔵讃歌にも唄われている「庭面にそそる大欅」がそそり立ち、濯川の淵には、つつじ、れんぎょう等が咲き乱れ木々の緑が生い茂り校庭では周りの雑木林と共に武蔵野の面影を残していた。
 武蔵高等学佼は7年生高校として、大正11年創立、80名の生徒が第一期生として入学した。その80%が通学に利用したという武蔵野農業鉄道の事などについて当時の先生や先輩などから聞かされたことを思い出してみようと思う。
 武蔵野農業鉄道は奥地の農業振興のため、明治45年に設立され、池袋から飯能まで弁慶号より少し大きい蒸気機関車に3〜4両の客車と貨車1両を連結した列車が走っていた。当時の列車は、50分毎に発車したので人々が乗り遅れない様に早めに駅に来ていたため、駅の中は非常に賑やかであった。然し、学校創立当時は江古田駅は無く人家のない線路伝いに麦畑を通り、お稲荷さんを抜けて学校に5分で到着した。然し、駅がないので、列車は、生徒のため徐行運転をして乗降させたと云われている。
 大正14年山手線の環状運転が始まったが、その年時計台の校舎が完成した。昭和2年に武蔵野農業鉄道が電化されたが未だ単線で池袋発が30分毎であった。
 池袋駅を出発した列車は江古田駅で始めて上りとすれ違い、腕木信号機、駅長のタブレツト交換でゆっくりと上下の列車、発車を行ったといわれている。池袋発8時の列車に乗ると8時10分に江古田駅に到着、8時15分に校門で予鈴がなり8時20分に授業開始の鐘がなった。その当時の列車時刻に合わせた始業時間が戦後の我々の時も続いていたのであった。
 そして、この時の列車はラッシュ時に4両、その他は2両で運転し全体の車両総数は26両であった。昭和2年に豊島園が開業して利用客が増加し、昭和3年8月に練馬駅まで複線が完成し、昭和4年3月には保谷駅まで複線になった。池袋駅の次の上がり屋敷駅が出来たのもこの頃で、山手線を利用する生徒は目白駅で下車して、上がり屋敷駅まで歩いたといわれている。また、その頃武蔵野農業鉄道は、電力会社に料金が払えず電気を止められたため、池袋駅に集まった生徒達が登校できず大騒ぎになった事もあった。
 現在、上がり屋敷駅は、廃止されたがホームの名残りは山手線の交差する手前に今もある。1946年に西武線になり435両の保有台数から2012年には、1286両になっている。そして、今は飯能〜秩父、地下鉄[有楽町線〜新木場、副都心線〜渋谷〜元町中華街]など路線キロが増えた。まさに、隔世の感がある。
 余談として、第一回生80人は文科40人、理科40人で卒業時に文科39人、理科39人が東京帝国大学に入学したが、文科1人、理科1人の2人が当時の教師の指示で京都帝国大学に入学したことが大きな話題になったそうだ。